留学と炎症の葛藤、そして漢方への道
父が築いた胸部外科の道を追いかけ、私は同じ分野へ進みました。
しかし、留学先で直面した「免疫」と「炎症」の壁、そして自身の体調不良が、思いがけず「漢方」への扉を開くことになります。
高知の業績が国内に伝わらなかった理由
井上バルーン法(PTMC)は世界で評価されていますが、日本、特に高知では意外と知られていません。
理由はいくつかあります。
まず、胸部外科は後に心臓血管外科と呼吸器外科に分かれ、歴史を一体で語る機会が減りました。
父が所属していた京都大学胸部疾患研究所外科も現在は呼吸器外科となっています。高知市民病院はその後、県立病院と統合され、地方発の医療史は、組織再編とともに記録が残りにくくなります。
また、井上先生は国内より海外で普及活動を行ったため、日本よりも先に世界で認知が広がりました。
こうした理由が重なり、高知で始まった低侵襲治療の歴史は、あまり語られていないのが現状です。
留学と研究、全身炎症との葛藤
1986年、私の高知医科大学受験3ヶ月前に母が急逝し、その5年後、私の臨床実習中に父は外科を引退します。
私は1994年に医師免許を取得、父と同じ京都大学胸部疾患研究所外科に入局しました。
静岡と岐阜で心臓血管外科の初期研修を終え、2004年からアメリカ・ミネソタ州のメイヨー・クリニックに留学しました。
メイヨーの研究棟、メディカルサイエンスビルディングの廊下には、世界で最初に実用化された人工心肺装置の写真が掲げられており、その前を通るたびに、自分が学んできた心臓血管外科の原点を思い出しました。
マウスの心臓移植モデルを用いて、拒絶反応や全身炎症を抑える方法を研究していましたが、免疫の解釈に苦しみ、思うような成果は得られませんでした。
不規則な生活と過食から体重110キロの高度肥満となり、頭痛、咳、倦怠感、睡眠障害といった不調が続いており、世界最高峰のメイヨー・クリニックを受診しても、よくなることはありませんでした。今振り返ると、肥満に伴う慢性炎症の状態でした。
2007年、ラボの移転に伴いミシガン大学へ移りました。心移植の研究は「免疫と炎症」の解釈で先に進めなくなり、ミシガンでのラボ立ち上げの雑務でさらに停滞しました。
その後、家族も体調不良となり、大した実績も残せないまま2009年に帰国、私は再び胸部外科医として働くことになります。
留学に際して、外科引退後は漢方に傾倒していた父は、私の体質に合わせて多くの漢方薬を持たせてくれました。
当時の私はそれを「うさんくさい薬」だと思い、飲むこともないまま、アメリカのアパートのゴミ箱に捨てていったのを覚えています。
まさか自分が将来、オンライン漢方クリニックを開業するとは思ってもいませんでした。
帰国後、低侵襲手術と漢方への接近
帰国後、私は島根大学で呼吸器外科の低侵襲手術を担当しました。
2010年代は手術創の小ささを競うように技術が進歩し、内視鏡手術からロボット手術へと、できるだけ体への負担を減らす流れが加速していました。
一方で大学病院の給与は十分とは言えず、休日はアルバイト当直を重ねる日々で、頭痛や倦怠感はさらに悪化しました。
この頃から、自身の頭痛や倦怠感に補中益気湯や五苓散を飲むようになります。
不思議なことに、服用すると体が軽くなり、手術への集中力も持続しました。
幸か不幸か地方大学では外科医が少なく、外科研修医もいないため、年間200件以上の手術症例のほとんど全てに漢方治療を併用することができました。術後の痛み・不安・倦怠感に対して、漢方薬が有効な場面が多くありました。
有効症例を学会で発表しても、呼吸器領域では「漢方=間質性肺炎の誘発因子」という偏見も強く、大きな関心は得られませんでした。
2017年、島根大学で外科漢方外来を開設。この頃には自分の肥満、慢性炎症も改善し、体調不良で悩む患者に漢方薬を処方するようになっていました。
父とは外科の話をすることはほとんどありませんでしたが、漢方の学習については、折に触れて助言をくれました。
「病気を治す前に、病気になりにくい体をつくる」
未病の考え方から、私は外科を引退することにしました。
まともな胸部外科医になってほしかった父は、この決断を聞いて悲しんだのは言うまでもありません。
体の声を聴く医療へ
科学と手術に傾倒してきた自分が、次第に「体の声を聴く医療」へと歩みを変えていきました。
次回は、東西医学の融合と、父の晩年との不思議なつながりについて語ります。
