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父の挑戦と心臓外科の夜明け

[2025.10.30]

2025年10月12日、父・宮本信昭が90歳で亡くなりました。

父の死をきっかけに、自分の原点である「胸部外科の始まり」と「地方医療への挑戦」を振り返ってみたいと思います。

元高知市民病院の胸部外科部長として、長年、地域医療に携わってきた外科医です。人工心肺がまだ限られた施設にしかなく、感染対策や抗菌薬も十分ではない時代に、地方で心臓外科を立ち上げました。

私はその背中を見て育ち、胸部外科に進みました。今回、父の最期をきっかけに、胸部外科の歴史、低侵襲手術の流れ、そして漢方に至るまでの自分の歩みを振り返ってみたいと思います。

心臓外科の始まりと、地方都市での挑戦

心臓外科の歴史は、実はまだ70年ほどしかありません。

1953年、アメリカのジョン・ギボンが人工心肺を使った開心術を世界で初めて成功させました。その後、メイヨー・クリニックのジョン・カークリンが技術を改良し、1955年に連続成功を達成。

「再現できる手術」として認められ、心臓外科が本格的に始まりました。

1969年、私が生まれる年に父は京都大学胸部疾患研究所から高知市民病院へ派遣され、地方都市で胸部外科を立ち上げる役割を担いました。

当時は安全な人工心肺装置も十分ではなく、血液が固まったり、酸素が足りなかったりするリスクがあり、死亡率が20〜30%にのぼることも珍しくありません。

さらに、戦後間もない頃は感染対策も不十分で、使える抗菌薬も限られていました。

ペニシリンが日本で市販されたのは1946年、カナマイシンが開発されたのは1957年、高知県本山町の土壌からジョサマイシンが発見されたのは1964年です。

そんな状況の中で、麻酔や輸血、器械の準備に至るまで、限られたスタッフで対応しながら手術に臨んでいました。地方での心臓外科立ち上げは、現在では想像しにくいほどの困難があったと思います。

「指の感覚」から生まれた低侵襲弁膜症治療

体外循環普及前の僧帽弁狭窄症の治療には閉鎖式交連切開術という方法がありました。

固くなった僧帽弁の癒着部分を直接触って広げる、という手技です。外科医の指先の感覚が頼りの手技であったときいています。

1980年になって、のちに井上バルーンで知られる若き日の井上寛治先生が高知市民病院胸部外科に赴任されます。

井上先生は研修医時代にFogarty(フォガティ)バルーンカテーテルによる血栓除去術をみて衝撃を受け、「指で弁を広げる感覚」を胸を開かずにカテーテルで再現できないかという発想へつながっていきます。

1982年、井上バルーン法を臨床応用し、世界初の臓器に対するカテーテル治療を成功させました。この成果は英語論文として報告されています。

Clinical application of transvenous mitral commissurotomy by a new balloon catheter
Inoue K, Owaki T, Nakamura T, Kitamura F, Miyamoto N.
The American Journal of Cardiology. 1984; 53(5): 422–426.

父は胸部外科部長として症例の承認と、万が一に備えた体外循環(人工心肺)でバックアップする役割だったようです。

高知市民病院では多忙な胸部外科の臨床現場での挑戦に否定的な声もあったと記憶しています。

当時、父はこう語っていたそうです。

「こういう研究も大事ながよー」

その一言には、現場を預かる医師として、挑戦する仲間への敬意が込められていたのではないでしょうか。

のちにTAVI(経カテーテル大動脈弁置換術)などの代表的な低侵襲手術が生まれた背景には、この「外科医の指先の感覚」から始まった思想がありました。

この頃の私はろくに勉強もせずに中学野球に熱中していました。父は夜遅くまで診療し、週末は私の試合を観にきて、買ったばかりのビデオカメラで撮影してくれました。

可視化が低侵襲を支えた時代

1980年代、日本の超音波診断技術は大きく進歩しました。

それまで、心臓の内部で起きている血流の向きや速さは、手術中の触覚や、音、圧の変化を頼りに推測していました。

そこに登場したのが、カラードップラー心エコーです。血流の方向や乱れを色で表示し、弁の動きや漏れをリアルタイムに見える化しました。

外科医の指先の感覚が、画像として再現される時代になったのです。

「外科医の指の感触を、画像で代わりに触る」そう言ってもいいほどの変化でした。

カラードップラー心エコーは1986〜1988年ごろから臨床現場に普及し、低侵襲治療の安全性を大きく高めました。

指で弁を広げる発想(井上バルーン法)と、血流を可視化するカラードップラー。

画像診断学の進歩が現在の低侵襲手術を支えています。

そして今、その延長線上には、TAVI(経カテーテル大動脈弁置換術)やMitraClipなど、胸を開かない弁治療が世界の標準となっています。

高知で芽生えた「低侵襲手術」の発想を、日本の技術が裏側から支えていました。

この技術を開発したのは、日本の東芝のエンジニアチームです。不思議なご縁ですが、この中心人物のひとりでるある飯沼一浩さんのご子息が私の家内の姉のご主人にあたります。医療と技術、そして家族の縁が、思わぬ形でつながっていました。

留学と挫折、そして「漢方」へ

地方で始まった心臓外科の挑戦は、やがて世界標準の治療につながっていきました。

次の記事では、私自身の留学と挫折、そして「漢方」との出会いへと続きます。

次の記事:留学と炎症の葛藤、そして漢方への道

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