東西医学の融合と、父からの遺産
心臓外科医としての道を離れ、漢方にたどり着いた私。
その歩みの先に見えたのは、父が高知で築いた近代外科と、もう一人の高知出身の医師・大塚敬節が再興した漢方医学という、二つの医学の流れでした。
国際シンポジウムと、東西医学
父が亡くなった日、私は広島で開催された日本東洋医学会中四国支部総会の国際シンポジウムで、座長を務めていました。
台湾の郭先生は、私が胸部外科から漢方に転じた経歴を知って驚いていました。
外科医が臨床の場で漢方を処方する例は、東西医療の融合が進む台湾でも、ほとんどないそうです。
心臓や肺の手術を担当していた私が、今は舌や体質を見て処方を考えるようになったことは、大きな変化です。
2022年にオンライン漢方外来で開業し、日本全国、世界の様々な都市から漢方治療を希望して来院してもらえるようになりました。
西洋医学でうまくいかない患者さんに対して、漢方治療が驚くような効果を示すことをしばしば経験します。
外科の現場で日々見てきた「術後の反応」や「患者ごとの違い」が、漢方の視点で一本につながる瞬間があります。
陰陽や六病位、五臓論といった漢方医学を学ぶうちに、西洋医学では整理しづらかった「免疫と炎症のあいだ」が、理解できるようになってきました。
臨床の中で、体調が実際に変わっていく患者を目の当たりにしながら、標準治療と漢方医学が相補的に支え合う医療の可能性を強く感じています。
高知で芽生えた二つの医学の流れ
近代医学の拡大とともに、高知の地からはもう一つの医学の流れが生まれています。
明治維新以降、西洋医学が主流となり、漢方は一時、低迷期を迎えました。
高知市出身の大塚敬節先生は、明治から昭和にかけて漢方医学を再評価し、現代漢方の礎を築いた漢方医学の巨人です。
西洋医学を学んでいましたが、湯本求真の『皇漢医学』に感銘を受け、1930年(父が生まれる6年前)、繁盛していた高知市追手筋の医院をたたみ、東京で本格的な修行に入ります。
大塚先生は、古典(傷寒論・金匱要略)と臨床を往復し、症状の背景にある「体質(証)」を重視し、その考え方は、今も日本漢方の礎となっています。
父が高知市民病院に胸部外科チームを立ち上げたのは1970年代初頭でした。
人工心肺の導入から間もない時期で、地方で心臓手術を行うには器械も人材も限られ、まさに「挑戦の時代」だったといえます。
一方その頃、漢方の世界では、大塚先生が漢方を臨床と研究の両面から再評価し、科学的検証の対象として位置づけようとしました。
昭和47年(1972年)、北里研究所附属東洋医学総合研究所を設立し、初代所長に就任されています。
この活動が漢方をエビデンスに基づく医療へと発展させる礎となりました。
こうした流れによって、漢方は一部の専門医の領域から臨床医全体に広がり、私や父のような普通の外科医も、患者の状態に応じて漢方薬を治療選択肢として用いることが可能な時代となりました。
ちなみに、父からきいた話では、大塚先生の親族が京大胸部研内科に在籍されており、お話をしたことがあるそうです。
父もその頃は、自分が外科引退後に「漢方おじいちゃん」になるとは思っていなかったでしょう。
おわりに
40年以上前に高知で心臓弁膜症のカテーテル手術が生まれた経緯を知る人は、今では多くありません。
医学は進歩し、外科手術は低侵襲化し、カテーテル治療は標準的な選択肢になりました。
免疫と炎症についての分子生物学的研究も進み、東洋医学的概念を西洋医学に翻訳できるようになってきました。
かつては胡散臭い医療と思われていた漢方医学も、ビッグデータの時代にエビデンスの構築と臨床応用が進んでいます。
父は胸部外科部長という激務のなか、酒もタバコも欠かさない生活を送りながら、外科引退後は漢方薬を飲み、外来で30年以上漢方薬を処方し続け、90歳まで生きました。
もしかしたら、漢方薬は本当に効果があるのかもしれません。
私も、漢方おじさんとしてできる限り長く臨床の現場に立ち、多くの患者さんを診察し続けたいと考えています。
※この内容は、父を知る医療者の方々へ、共有のために記録しています。
